2005年05月27日
ゲームソフト規制に思う事
神奈川県で、遂にゲームソフトの有害図書指定が行われるようです。その理由を松沢成文知事は「ゲームソフトは、映画やビデオとは異なり、自分自身が主人公となって、ゲームに参加することにより、あたかも現実の世界、場面にいるような錯覚、感覚を覚えることがあると言われています」と述べています。
……ん?「?錯覚、感覚を覚えることがあると言われています」ですって?。へー、そんな根拠も無い曖昧な理由でゲームソフトの規制をしちゃう訳ですか。
この神奈川県の動きは、今年2月に起きた大阪府寝屋川市での少年による教職員殺傷事件を受けてのものです。逮捕された少年が、残虐性の高いゲームに熱中していた点を重視し、早急な対策が必要だと判断したそうで。
ではここで質問です。人が映画や小説を見たり読んだりして、感動して泣いたり、怒りのあまり本を破ってしまったりするのはなぜでしょうか。あるいは、サッカー日本代表の試合を見て、手に汗握るのはなぜでしょうか。
答えは至極簡単です。自分が、まさにその場面に入り込んでいるからです。
映画で恋人が死にます。とても悲しいです。泣きそうです。しかし実際は、映画の中という架空の世界で、自分とは全く関係の無い役者が、しかも死んだ振りをしているだけです。冷静に考えてみれば、別に悲しくとも何ともありません。
ですが、それでも悲しく泣けてくるのは、自分があたかもその場面で、残された側になっているからに違いありません(仮に『主観要因』としておきます)。
かと言って、ぱっとその場面を見せられただけで、残された側になりきれる人は少ないでしょう。せいぜい「恋人に死なれてかわいそう」くらいにしか思えない筈です。その場面に入り込むには、そこまでの物語や、場合によっては周りの雰囲気が必要となってきます(同様に『環境要因』とします)。
錯覚というものは、環境要因という土壌に植えられた、主観要因という種が発芽したものだと思います。
とすれば、環境要因の方が大事なのは明白です。「残虐性」という主観要因の一部のみを取り除くだけでは意味がありません。必ず、また別の種が発芽してしまうからです。環境要因を改善し、残虐性が発芽しないようにする必要があるでしょう。つまり、先の教職員殺傷事件と照らし合わせると、少年が残虐性の高いゲームにはまるようになって行った過程(環境要因)を解明する必要があり、それこそが急務なのではないでしょうか。条例で、土壌に種が入らないようにビニールシートを被せたところで、その防御は完璧ではありません。必ずどこからか種は侵入し、発芽してしまうでしょう。ビニールシートを被せることよりも、種をいかにして発芽させないようにすることの方が重要です。
環境要因改善だけではなく、芽(少年非行)を摘む事すらも面倒なばっかりに、蓋をして成長を阻むだけではいけません。いつかその芽が外に出てしまうだけではなく、土壌自体が腐ってしまう可能性すらあります。
また、大人の説明責任を果たす事無く、あれも駄目、これも駄目と言って子供の自由を奪うだけでは、子供もやさぐれて当然だとは思いませんか?